「生きること」と「老い」

2017年4月28日 (SNSへの投稿より)

唐突ですが…この一週間は「生きること」「老い」について沢山考えさせられた。

生きている者一人一人には、それぞれ違う役割と使命があること。

その役割は、常にそこにあるけれど、当の本人には、何年もの年月を経て明らかになっていくということ。

それは、時に自分の望みや想像とは全然違うこともあること。

ただ手探りで生きていたら、気づいた時には与えられた役割をみんな生きているということ。

そして、その人が授けられた使命を全う出来るのは、常に沢山の他者が陰日向に支えてくれているからだということ。

ともすると、私たちは、自分の力で生きていると思ってしまうけれど…。

本当は、良い関係にある人、そして残念ながらそうでない人も含めて、そのありとあらゆるプラスとマイナスの関係性と意思の波にもまれながら、私たちは自分らしい「生」を許され、この世に小さな歩みの足跡を残していくということ。

けれども、これまであまり深く考えたことはなかったけれど、人生にはどうやらその先があるようで…。

ある日、自分の使命を全うし、その先の生きる意味を見失い、見出せなくなる時が突然やってくる場合もあるようで…。

その時、人は何を支えに、それでも生き続ける勇気を得るのだろうか?

今週は、たまたま「老い」との関連で、「死にたいと思っても、人はそう簡単には死ねないもの」という言葉を何人もの人の口から聞き、それが頭の中でこだましている。

今まで深く考えたことがなかった。

けれども、その言葉が深く胸に響いた。

「老い」について、いよいよ真剣に考える時が来たようだ。

「老いに伴う絶望」に直面した人の前で、どんな言葉をもって、希望の光を指し示すことが出来るのだろうか?

人それぞれが生きてきた歴史や、信条、信仰、価値観によって、その人にとっての希望の源は違ってくるのかもしれない。

ただ一つだけ、今の私が見出だせた一つの答えがある。

それは、「命をつなぐ」ということに含まれる希望。

自分が例えこの世を去る日が近くとも、我が身なき後も生き続ける次の世代の命の灯火があること。

それが、どれだけ喜びと平安と希望を与えてくれるかということ。

老いていく時、こんなことを心から喜び、感謝出来る人になりたい…。


喜んでこの世とお別れするためにも、未来を担う人達に、より平和で安全な世界を残していかなくては…とあらためて想った。

手入れを怠っていたお庭の花壇。植えてもいないのに、昨日は一輪お花が咲いていた。今朝はさらに沢山のお花が太陽に向かって美しく咲いていた。

結局、世の中のほとんどのことは、私たちの思い通りにいっているわけではなく、やっぱり私たちもみんなこのお花たちのように、大きな存在の手によって命を与えられ、生きる場を与えられ、花を咲かせられるように育てられ、花を咲かせ、やがて時がくれば土に還っていく。

色々考えてみたけれど…

やがては尽きる命。

せっかくいただいたのだから、闇ではなく、やっぱり光に向かって生きる人でありたい…。

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