「噓をつく」こと
ある時から、
アメリカのニュースを視聴することが私の日課になっています。
そうするようになった理由はいくつもあるのですが、
「権力を持つ立場の人がつく『噓』が、周囲の人、国民、国の政策、人々の生活にどのような悪影響を及ぼすのか」
ということにとても興味をもったのが、一つのきっかけでした。
もっとも、これは他所の国に限った現象では決してなく、
もっと身近なところに目を向ければ、
私達の国、日本、
そして私たちの日常生活の中にもいくらでも事例が溢れていますが。。。
私もそうですが、きっとみんなも、小さい時から
「噓をつくことはいけないこと」だと教えられてきたと思います。
けれども、同時に、そう教えられてはいるものの、
日々のニュースを見ていても
普通に生活をしていても、
実は「この世は噓で溢れている」
ということにも、かなり早い段階から気づいているのではないでしょうか?
「噓をつく」ということは、
本当のことを言わないということです。
何か隠したいことがあったり
言いたくないことがあったり
自分で受け入れられないことがある時
人は「噓をつく」のだと思います。
「噓」には、お父さんやお母さん、先生、お友達、兄弟、知り合いなど
自分以外の人につく「噓」があります。
他の人が本当のことに気づかなければ
「何かを守る」ことが出来ると信じて
「嘘をつく」。
真実さえ明らかにならなければ
怒られたり、責められたり、問い詰められたりしないで済む。
ピンチを逃れることさえ出来たら
安全が確保出来るような気がする。
だから「噓をつく」。
ただ、「噓をつく」時に、多くの人が気づいていない重要な事があると思うのです。
それは、
他の人にバレなくても、
自分が確かに噓をついたという真実を
「自分自身は知っている」ということです。
つまり、自分は、「本当のこと」を知っているのです。
他の人は騙せても、自分自身に噓をつくことは出来ないのです。
人は生きていると大なり小なり、
どうしても噓をついてしまうことがあると思います。
「今まで噓をついたことなんて一度もない」なんて
私も口が裂けても言う事が出来ません。
ただ、ちょっと屁理屈を言うとするならば。。。
噓には「良い噓」と「悪い噓」があるとも考えています。
「良い噓」とは
「噓をつくことは悪いことだ」とわかっているけれど
大切な人、事柄、何かを守るために勇気を振り絞ってつく噓。
思いやりをもって、誰かのためにつく噓。
この手の噓は、あまり心に暗い陰りを残さない噓だと思います。
自分の信念を貫くためにつく噓だから、
どこか充実した満足感を残す噓でもあるかもしれません。
他方の「悪い噓」とは
「噓をつくことは悪いことだ」とわかっていても
その悪いことをすることを自分で良しと決断して、実行する噓。
自分の弱さ、醜さ、失敗、ずるさ、間違えを隠すためにつく噓。
この手の噓は、噓をついた後にずっと心にどす黒い罪悪感を残します。
私の考えでは、本当にたちが悪いのは、
二つ目の「悪い噓」だと思います。
その噓が誰にもバレなかったら
最初は「ラッキー!!」だと思うけれど、
噓をついたその日から
ずっと「自分の中に残る噓」だからです。
この「悪い噓」のさらに悪質なところは、
誰にもバレなかったから、
「また噓をういてもいいかな?」という気にさせ
もう一回、またもう一回と
繰り返し噓をつく誘惑をもたらすところです。
そして、そのうちに噓をつくことが平気になっていくこともあります。
「悪い噓」をつき続けると、
そのうちに自分がついてきた噓が自分の中にたまっていって
知らず知らずのうちに
自分という人間の心の在り方と生き方
さらには、顔つきさえ変えていきます。
そして、本当のことが曖昧になっていきます。
噓を重ねてしまったことで、
自分の心の中に、
「悪いことをしてしまった」という
罪悪感が残り、
気づかぬうちに、その噓のストーリーに
自分が包まれて生きることになり
気づくと自分が不自由な状態にもなっていきます。
その罪悪感の山が大きくなれば大きくなるほど
人は心から笑えなくなっていくのです。
喜びを実感することが出来なくなるのです。
顔は笑っているつもりでも、
どう頑張っても心から輝く笑顔が出てこなくなるのです。
そして、自分以外の人が、噓に気づいていなければいないほど
自分の心は更にぎゅーっと締め付けられていくのです。
不思議なもので、
本当のことはバレていなくても
実は、外から見ていると、
噓をついている人の顔には
「噓をつきました」って、
書いてあるのがちゃんと見えたりもします。
既に書いた通り、私は、人間というのは、一つや二つ、
いや、生きている間に、自然といくつもの噓をつく生き物なのだと思っています。
だから、「噓をついた」というそのことだけををとって
自分以外の人をすぐに責めることなど、
誰にもできないと思うのです。
だとしたら、どうして
誰しもが、噓をついてしまうような性質を持っているのに、
それでも私達は幼い頃から
「噓をつくのはいけないこと」と教えられているのでしょう?
もしかすると、誰もがそう教えられているのは、
「悪い噓」を経験してきた先人からの優しい忠告なのかもしれません。
私達が「悪い噓」を繰り返し、
自分の力では解決することが出来ないくらい苦しい状態に陥らないで済むようにするための
愛情ある忠告。
「噓をつくのはいけないこと」だと私達に教えておくことで。。。
自分達が「いけないこと」をしてしまった時には
そのことに、ちゃんと「気づく」ことが出来るように。
何故ならば、自分の「間違えに気づく力」を持っていれば、
反省することも、謝罪することも、
再度やり直すことも出来るようになるから。
そして、「気づく」ことが出来れば、
改善策を見つけることも出来るし、
変わることへの希望が残されるから。
私は、噓をつくことはもちろん悪いことだけれど、
噓をついた後に、「自分がどのようにその噓と向き合うか」
がもっと大切なことだと思います。
「噓」というのは、
だいたい いつかバレてしまうものだから、
バレた時、そしてバレていなくても
もう「噓をつく」ことが苦しくて耐えられなくなった時
その時に、どういう行動をとるのかが大切なのだと思うのです。
例えば、みんなが「悪い噓」をついて
自分の「悪い噓」から解放される方法が見つからなくなって
苦しくなり、
もう一人では、どうしたらいいのかわかなくなることがあったら、
その時には
勇気を出して助けを求めたらいいです。
だいたい「噓」には「噓をついた」相手がいるから
一人では解決出来ない場合も多々あると思うのです。
だから、相談にのってくれる人を探しましょう。
そこで大事なのは、
既に、自分自身の間違えにちゃんと「気づけている」ということです。
「気づき」さえあれば、必ず解決の道があるのです。
自分が安心して心を開くことが出来る、信頼できる相手を見つけ
正直に自分のついてしまった「悪い噓」を告白したらいいのです。
それで、いいのです。
生きている人は、誰でも「噓をつく」し
誰もが、間違えや失敗を繰り返して生きているのです。
だから、大丈夫。
一人ではないのです。
自分自身がしてしまったことを十分反省したならば
出来るだけ早く、自分の噓を認めて、
白状して、あやまれば、それでいいのです。
「ごめんなさい!!」って。
みんなのことを大切に思っている人ならば
その「ごめんなさい」を聞いたら
(まあ、最初は少しは怒るかもしれないけれど。。。)
ついてしまった「悪い噓」と、
そこから来る苦しみから、どうしたらみんなが抜け出せるかを
必ず一緒に考えてくれるはずです。
すごく勇気が必要なことだけれど、
恥ずかしくても、そのちょっとの勇気を振り絞ることで、
自分がしてしまったことを過去のものにし
新しい一歩を踏み出すチャンスを得ることが出来るのです。
自分をリセットして、
また心から笑顔で笑えるようになって
前向きな一歩を歩みだす機会を得られるのです。
「噓つきは泥棒の始まり」という言葉があるけれど
私は、噓をつくことは、
自分の心から清らかなものを奪うことだと思うのです。
他の人から何かを盗む以前に
自分自身から大切な煌めきを盗む行為だと思うのです。
自分自身を傷つける行為。
誰でも「噓をつく」可能性を持っていること。
間違えてしまっても、全ての人に反省する機会が用意されていること。
自分の間違えに気づいたら「ごめんなさい」と謝るチャンスが残されていること。
こうしたことは、教えられたからって、すぐに学べることではないと思います。
むしろ、大人も子供も、日常生活の中で
こうしたことを実際に経験することによって
少しずつ学び、
人間として成長する機会を与えられるものだと思うのです。
「噓をつく」経験を通してでしか習得することが出来ない、生きるための大切な知恵。
「噓をつく」という行為も
みんなにとって一つの学びの経験だと思うのです。
「悪い噓」は、自分を苦しめるものです。
もしそれを経験したならば、
その時に自分自身が感じる痛みとしっかり向き合い、知恵を得たら良いのです。
そして、「悪い噓」を避けられる力を養っていけば、それで良いのです。
みんなが平気で「悪い噓」を繰り返す人にならなくて済むように
良い経験と、賢さと、知恵が授けられることを、心から願っています。
そして、困った時には、
「手を差し伸べてくれる信頼できる人が、必ずみんなの傍に存在しているように」
と切に祈ります。