アザーン
前回ラマダンについて少し書きましたが、今日はアザーンについて少し書きたいと思います。
イスラム教の人々は、ラマダンの時だけ断食をし、一生懸命祈るのではなく、
一年中日々欠かすことなく祈りを捧げています。
それも、一度ではなく、一日に5回の祈りの時を持ち、
聖地メッカの方角に向かい祈りを捧げています。
そして、その礼拝の時間を知らせる呼びかけが「アザーン」です。
一日5回祈ると書きましたが、それは、夜明け、正午、午後、夕方、夜の5回のようです。
私が初めてアザーンを耳にしたのは、やはりバングラデシュででしたが、まるで唄っているかのような節回しで聞こえてくるその呼びかけは、耳に心地よく、不思議とすぐにそれに心奪われてしまいました。
何を言っているのかは、全く聞き取れませんでしたが、調べてみると
「アラーは偉大なり。アラーの他に神はなし。ムハンマドは神の使徒。礼拝に来たれ。」といった内容のようです。
イスラム教の国で生活をしていると、このアザーンが一日に幾度も聞こえてくるのが当たり前になります。
自宅近くにモスクがあれば、かなり大音量で、
少し離れていても、方々のモスクから一斉に聞こえてきます。
異国情緒たっぷりの、まるで祈りのように聞こえる調べは、それだけで何か神聖な空気を運んでくるかのようなのです。
先進的なショッピングモールで買い物をしている時も、お祈りの時間にはアザーンがきこえてきますし、
夜にレストランで食事をしていても、このアザーンが流れてきたりします。
基本的には生の呼びかけなので、アザーンを唱えている人の節回しや声、呼びかけの仕方がモスクによってそれぞれ違います。日によって呼び掛けている係の人も違い、数きいているうちに、深く心打たれるアザーンとそうでないものが出てきたりします。
フラメンコを踊る者としては、バングラデシュで初めてアザーンを耳にした時から、大きな親しみを感じました。
フラメンコが生まれたスペインのイベリア半島は700年代から1400年後半までの約8世紀近くイスラム教徒により支配されていたそうです。そう考えると、キリスト教徒達が権力を握るまでの間、スペインの地にも800年に渡りこのアザーンが流れていたのかもしれません。
そうだとすれば、そのアザーンがフラメンコ音楽そのものに多大なる影響を与え、それが色濃く残っていると考えても不思議ではないことに、ちょっとロマンを感じてしまいます。
以下に私が好きなMiguel Povedaというスペイン人のカンタオール(歌い手)の歌のYouTubeリンクを残しておきます。
ちょっと出だしを聞いただけでも、声の出し方がどこかアザーンに似ています。歌詞の内容も使っている言語も全然異なりますが。。。
ちょっと話が横道にそれますが。。。
私はパキスタンを訪問した際、バングラデシュ滞在以来、久しぶりに耳にするアザーンに、懐かしさと安らぎを感じました。
何故なのか?
これまで様々な信仰を持った人々が暮らす異なる宗教の国々で生活する機会を与えられてきましたが、
そのことで私の宗教観が大きく変容し、新しく形成されたからだと思うのです。
自分自身がどの宗教を信仰するかは別として、アメリカでも、チリでも、ネパールでも、バングラデシュでも、そしてパキスタンでも、それぞれの場所で、敬虔な信徒と出会うことが出来ました。
各国で出会った人々との交わりを通して、未知の宗教に対する先入観や差別的な考え、宗教を比較することが、どれだけ馬鹿らしいことかを教えられました。
アメリカでは、主にプロテスタントの人々
チリではカトリックの人々
ネパールではヒンズー教と仏教が入り乱れる文化の中で、ヒンズー教の神様、お釈迦様に祈る人々
バングラデシュとパキスタンでは、イスラム教を信仰する人々
と出会いました。
信仰する宗教、それぞれの宗教儀式の在り方、祈り方、祈りの対象は違えども、
そこに共通して見えたのは、
自分達よりも大いなるに存在・叡智に対して首を垂れて祈りを捧げることを知る人々でした。
人間の知恵や能力をはるかに超えた、万能なる存在を信じる信仰。
人間が決して完璧ではなく、間違いや失敗だらけの弱い存在であることを知っている人々でした。
人間の弱さを全て受け入れた上で、人間を大きな愛情や叡智で包み込む大いなる存在を知る人々。
その様な人々と出会っていくうちに、どの宗教が真で、真理を伝えているかなどということを
人間が簡単に語れるものではないと信ずるようになりました。
そして、少なくとも私は、どの人が信仰している宗教も、「本物」で、根っこは一緒だという確信を得ました。
そういう意味で、アザーンの呼びかけに素直に応じ
大いなる存在にひれ伏し
一日5回の祈りを捧げる人々の国に降り立った時
ムスリムの人々が人間として大いなる存在の前に謙虚に生きる姿に
自分が信じるものと共通する神聖で尊いものを感じたのだと思います。
そして、そういう彼らの姿につられて
自然と自分自身も「大いなる存在」の前に素直になれたのでしょう。
そして、素の人間として、同じように安らぎにあずかることが出来たのかもしれません。
(私がアラーの神を信仰するという意味では決してなく、その一番根底にある「大いなる存在に祈る」という本質的なところでは、私自身が信じることと何ら違うことが無いという安らぎをえる感覚だと思います。)
最後に一点、決して間違えてはならないことがあると思います。
それは、キリスト教にしても、仏教にしても、イスラム教にしても、世界の主な宗教には、様々な分派があります。
なので、全ての宗教が、本当に崇高な信仰をもっているかどうかについては、私には決して語ることが出来ません。
ここで私が記しているのは、あくまでも、私自身が個人的に出会った人々の信仰に触れた時の私自身の主観的な考えです。