不思議な導き②(そびえ立つ山🏔)
前回は、思いがけないインスピレーションの悪戯で
「フンザに行きたい!!」という思いを抱き
パキスタンで生活することを決意した経緯について書きました。
その後、時の流れと共に
私がフンザに強く魅かれる理由が
少しずつ明らかになってきました。
とても分かりやすい一つの理由は
そこに「そびえ立つ山」があるということ。
人間を遥かに超えた大きさで「そびえ立つ山」。
私はそれを見上げる場所に立ち
そこで自分が何を感じるのかを
無性に知りたいのです。
そこに立った先に何があるのかはわからない。
それでも、その場所に呼ばれていると感じてならないのです。
そして、その思いは日に日に強くなるばかりなのです。
そもそも私は、
自分が生活する場所の傍に山があると
とても落ち着く性分なようです。
特に山登りが好きだとか
そういうことではなく
ただ、そこに山という自分よりも「大いなるもの」がある
ということが、私に安心感を与えてくれるのです。
どうしてそうなのか?
一つ具体的な心当たりがあるとすれば
中学高校時代を過ごしたチリのサンチャゴの街
そして、私が通っていた学校が
山に囲まれた場所にあったということがあると思います。
私の第二の故郷サンチャゴは、空気が澄んでいれば、
夕陽に染まるアンデス山脈を見渡すことが出来る美しい街でした。
もっとも、当時は、そんな恵まれた環境に気づく余裕もなく
学業に追われ、ただただ毎日必死で生きていました。
けれども、数年前に同窓会でサンチャゴを訪問した時
街を囲む山々に深く感動し、
「なるほど~。私はこんな環境で成長したのだ!
いつもこんなに近くに山があって、山に見守られていたのだ。
だから、山が見えると落ち着く人になったのかも?」
と思ったのでした。
そう考えてみると、
チリから日本に帰国した大学時代、
アイデンティティクライシスに陥って
東京の街中から離れたくなった時も
南アルプスが見える穏やかな地で
ゆっくりと癒してもらったのでした。
あの時も、遠くに見える山を眺めながら。。。
人生の中で、チリの次にとても高い山の近くで暮らしたのは、
二人のこども達を授かった後
ネパールのカトマンズで暮らした時でした。
残念ながら、暮らしていたエリアは山が見えにくい方角だったのと
盆地という地形から、
街の空気が淀んでいることが多く
日常的にヒマラヤを崇めることは出来ませんでした。
けれども、お天気の良い朝など、少し郊外に足を運ぶと
遠くに雪化粧をしたヒマラヤ山脈を展望することが出来ました。
休暇の時に家族で訪れた
とてもフォトジェニックなポカラの街から見上げた山々。
そして、ジョムソンからのトレッキングルートの景色も
脳裏に焼き付いて離れない強烈な風景です。
大きく「そびえ立つ山」の数々に見下ろされて
テクテクと歩く時間は、
自分の小ささとちっぽけさと向き合いながら
「大いなるもの」に抱かれる心地よさと安心感に包み込まれるような時間でした。
その時のトレッキングは、その後も私の心に深く刻まれ
とても特別な経験となっています。
今でも忘れられない光景がもう一つ。
それは、ネパール上空の飛行機の窓の外
地上から十分離れた高度で飛行しているのに
目線よりも更に高い雲の上に突き出す
三角頭のエベレストの頂上
そして、ヒマラヤ山脈の連なりを見た時でした。
あまりの神々しさに
人知を超える遥かに偉大な存在が
確かに存在することを確信しました。
神々に一番近い、世界最高峰の山々が連なるヒマラヤ山脈。
意識をしていなくとも
その堂々たる佇まいに触れてしまったら
人生観が少し変わってしまうのは事実かもしれませんね。
少なくとも、人間という存在が如何にちっぽけで無力かということ
そして、人間の存在よりも「大いなるもの」が確かに存在することを
確かに実感できる
そんな場所であったような気がします。
そもそも「大いなる存在」は誰にも見えません。
けれども、「そびえ立つ山」を見る時
私は、より一層確かに、
その「大いなる存在」を感じられる気がするのです。
さて、少し脱線してしまいましたが
こうして記してきたように、
「そびえ立つ山」の存在が
人生の節々で私の傍にありました。
サンチャゴやカトマンズで、
身近に存在していた山々。
こうした実際の山々と出会った経験からなのか
実はその後現在に至るまでの長い間、
様々な場面で
想像の中の「そびえ立つ山」にも支えられてきました。
実際にはその場には無いけれども
私のイマジネーションの中で「山のある風景」が
私に寄り添い続けてくれているのです。
例えば、一時期
身体のリハビリテーションのために通っていた太極拳教室で。
呼吸を整えながらウォーミングアップをしている時
私は両目を薄っすらと閉じて
いつも遠く雪化粧をしたヒマラヤ山脈のような高い頂きを思い浮かべていました。
そうすることで、神経を統一して
この世的な雑念から解放され、集中することが出来たのです。
また、ある時から今日に至るまで続いていることがあります。
それは、例えば歯医者さんで治療を受ける時
もしくはワクチン等の注射を受ける時
健康診断で嫌な検査項目がある時等
苦痛を伴うと思われる場面に遭遇すると
咄嗟に頭の中に「そびえ立つ山」を想像するのです。
そうして山を見ることに意識を集中させることで
現実の苦痛から逃れて自分を落ち着かせられるのです。
それがどうしてなのか、
深く考えたことがありませんでしたが
何故か「フンザに行きたい」と思った時から
私にとって「そびえ立つ山」に大切な意味があることを意識するようになりました。
そして、こうしてあれこれと自分の生活史を振り返りながら
なるほど、私にとって「そびえ立つ山」の存在が
例えそれが近くにあっても、無くても
私に落ち着きと安心感を与えてくれるものなのだと
はっきりと理解しました。
こうして長々と
何を書きたいのか。
「フンザに行きたい!!」と思った時から
私の中に明らかにされていく
一つのストーリーの中に
遥か頭上高く「そびえ立つ山🏔」が存在します。
そして、それが、私の中では
今まで見た風景とは違った深い魅力を持つものなのです。
不思議な愛おしさや安心感
恋しさを感じる風景なのです。
そして、つい最近この同じ風景が
全く思いがけないいくつもの別の方向から
私に語り掛けてきています。
・・・・・つづく・・・・・
最後に。。。
サンチャゴへの里帰りの写真を探していたら
チリの北部、アタカマ砂漠に旅をした時の写真も発掘しました。
とても魅力的な風景なのでここに残しておきます。