世の中に「Empathy」が溢れたなら。。。

しばらく前から「Empathy」という言葉が

私の中の大きなテーマになっています。

Empathyを日本語に置き換えるならば、

「共感、感情移入、他人の気持ち・感情を理解すること。」といった意味の言葉です。

これまでも日常の様々な場面でEmpathyについて考えていましたが

コロナと共に生きることを余儀なくされる今、

忙しく、そして自由に行動していた時以上に

時間のゆとりがあるからか

様々な事象と、そこに「あったらいいなと思うEmpathy」について考えていることが増えているのです。

すごくタイムリーでわかりやすい例をあげるとしたら

コロナ禍の中、

「何故、誰のためにマスクを着用するのか? 若しくは着用しない選択をするのか?」や

「ソーシャル ディスタンシングを保つ意味」。

George Floydというアフリカ系アメリカ人男性の死をきっかけに、

米国で活発化し、世界に飛び火しているBlack Lives Matterの抗議活動と

その裏にある社会構造の問題と根深い人種差別の歴史。

このような事柄を耳にしながら

まずは私事として、

さらには想像力を働かせて、他者の立場に自分の身をおいてみて、

そして、他国の問題を自分に引き寄せながら

そこに必要なEmpathyについて考えるのです。

もうすぐ始まるレジ袋の有料化という身近な事象から

地球温暖化や環境問題という大きなテーマまで、

様々な次元の物事を考える時にも

どれだけそれぞれの事柄について

人々が、Empathyをもって考えることが出来るかで

一人一人の行動の在り方が変わってくるのだと思うのです。

私達に一番身近なものとしては、

家族・友人・私達の生活を彩る方々へのEmpathyがあるでしょう。

日本語でいう「思いやり」もEmpathyがなくては持ちえない感情かもしれません。

そして、そこからより広い社会に意識を拡げていくと、

地域社会で円滑に生活をしていく上で必要なEmpathy。

例えば、一人一人の日々のごみの処理の仕方、出し方、その行動様式の在り方一つの中にも

その人の地域社会に対するEmpathyの度合いが現れるように思うのです。

さらに範囲を拡大していくと、

今であれば

コロナに感染された方々、そのご家族に対するEmpathy。

エッセンシャルワーカーの人たちに対するEmpathy。

通学・通勤、お仕事に大きな影響があった方々へのEmpathy。

生活苦に見舞われた方々へのEmpathy。


自分とは直接に関係がなくとも、

今同じ時代を生きていて、同じ脅威と向き合いながら共に戦っている

直接目には見えていない人々へのEmpathyの力も、試されているように思うのです。

誰しも、自分のことで精一杯になってしまうと

自分以外の他者や周囲、地域社会

国家規模の出来事、国際社会で起こる出来事などについて考える余裕がなくなり

自分からより距離が遠いことに対するEmpathyの気持ちをもつことが難しくなってしまいます。


また、こういったこと以外に

果たして「時間や心のゆとりさえあれば、誰しもがEmpathyをもつことが出来るのか?」というと

残念ながら必ずしもそうではないと考えます。

視線を外に向けること

耳を傾ける意思があれば

誰でもEmpathyの気持ちを持つことができるかというと

必ずしもそうではないと思うのです。

「共感、感情移入、他人の気持ち・感情を理解する」ためには

実は、豊かな「想像力」が必要なのだとつくづく思うのです。

私ではない、自分とは違う他者・立場に気持ちを寄せる。

そして、相手の立場に立って物事を感じようとする/考えるようとする力。

そもそも根本的に価値観も質も違う者同志が

互いにEmpathyをもつことが本当に出来るのでしょうか?

自分ではない他者に対してEmpathyをもつためには

まずは全ての人が違うという前提に立った上で

相当な「想像力」が要求されると思うのです。

そして、全力で「想像」するためには

出来得る限りのエネルギーを相手に向け、

惜しげなく相手に自分の時間を捧げる以外、方法が無いと思うのです。

「想像」する過程では、

知り得る限りの相手の情報を頭の中に並べ、整理し、

フル回転で情報をプロセスする。

そして、人間としてお互いが共有しているであろう

基本的な欲求・感情に照らし合わせて

ぐ~んと相手に気持ちを寄せていく。

 地球上で生活をする全ての人が

同じコロナウィルスという見えない敵と戦う今

日本だけではなく、世界のあちこちに様々なほころびが見えています。


そんな今、このEmpathyの力をフル稼働させることが、

私達人間に強く求められていると強く感じるのです。

この世で人間生活をしている限り

国籍、人種に関係なく

程度の差こそあれ、

誰でも必ず

苦労、苦難、悩み、痛み、困難、課題、チャレンジ、喪失感、孤独感、絶望感、怒り

などの感情をもって生きています。

そのような感情の只中にあると

まるで自分一人がそのような状態に陥っているように感じてしまう。

けれども、実際は、全ての人が大なり小なり

そういった感情を経験し、乗り越えながら

前に進んで生きている。

その一人一人の経験は

年月と共に

その人の中に蓄積されているわけで

その蓄積された感情や経験のストックを

他者と向き合った時にEmpathyという形で生かすことが出来たなら。。。

困難に直面している人を前に

一旦「自分」スイッチを切って 

少しの時間を作り

相手に心を寄せて

相手の抱える課題を「私事」として考え

その上で意見や行動をすることが出来たなら。。。

「もしも自分がこの人の立場にあったなら、自分はどうするだろうか?」

「私だったらどう感じるだろうか?」

と立ち止まって、Empathyをもって考えることが出来たなら。。。

生きていると、日々、身の回りのことだけではなく

人間関係において

ニュースの世界で

日本の中で

世界のどこかの国で 

自然界で

地球上で

起こる様々な出来事に心を痛めることがあります。

そういった時

もしこの世の中に、もう少しEmpathyがあったなら

もう少し人間社会全体としての

私達の心の痛みが減るのではないか。。。?

共に生きるこの世に

Empathyが溢れるならば

もう少し世の中が今よりよくならないのだろうか?

と、妄想するのです。

このEmpathyという概念は、ここしばらくの私の大切なテーマになっていて

ここに書いたように、日々「ああでもない。こうでもない。」と

頭の中でこねてくりまわしています。

今回はざっくりと書きましたが、もう少し掘り下げて考えていることもあるので、

また考えがまとまったら、つづきを書いてみたいと思います。

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